尾崎豊・吉岡秀隆
【シェリーが始まりだった】P4
4月24日。吉岡は友人と会い、翌25日の明け方に帰ってきた。
それから眠ろうと思ったのだが、何故か目が冴えて眠れない。
昼頃になって、ようやく眠れそうな気がした。
「じゃ、寝る。電話があっても取り次がないで・・・。」
家人にそう伝えて床に入った。
いつもは自分の部屋で寝るのだが、その日は何故か母親の神棚のある部屋で寝た。
何故だったのだろう・・・。
そして午後3時頃電話が鳴った。
「取り次がないでくれ」と言いながら、誰の電話かもわからないのに、吉岡は
「出る。僕だったら出るから」と叫んでいた。
そして彼の事務所のスタッフから、彼の死を告げられた。
吉岡は彼と最初に酒を飲んだ時、なぜか「この人は絶対に30歳になれないんじゃないか」
と感じた。そして、彼にこう言った。
「尾崎さんはジェームス・ディーンの生まれ変わりじゃないんですか」と、
彼は苦笑いをしながら「どうしてそう思うんだ。俺が早死にするってことか」と言った。
吉岡はこの時のことを思い出した。
病院に行くまで吉岡は
「死んだなんて間違いだ。入院したことが大袈裟に広まったんだ。」と思おうとした。
だが、心臓が凍りつくような寂しさが襲ってきて、
彼の死はそれは確かである、という実感はぬぐえなかった。
涙が止まらなかった。
病院に着くとマネージャーはポツリと言った。
「死んじゃったから・・・」
それから吉岡は何がなんだかわからなくなった。
あとで関係者から「半狂乱のようだった」と聞かされた。
それから吉岡は弔辞を読んだ。
【弔辞】
初めて尾崎さんに贈る文章が弔辞になるなんてこんなにつらいことはありません。
アイソトープの尾崎さんの部屋でこの文章を書きました。
尾崎さんのいないあの部屋にも、僕ひとり押しつぶすには充分な思い出がつまっていて、
それでなくても、ままならない体がいよいよどうにもなりません。
尾崎さんがいなくなって人間の涙はとどまることを知らないことを知りました。
自分がこんなにもちっぽけで無力なことを知りました。
人は悲しみに出会った時、眠れない日々が続くということも知りました。
尾崎さんは何度眠れない夜を過ごし、どれだけの涙を流したことでしょう。
転んでも転んでも立ち上がり、 走り続けて行こうとする尾崎さんを悲しいくらいに僕は好きでした。
自分の生きたい時間を一番自分らしく生きた尾崎さんを僕は誰よりも誇りに思っています。
聞く人の人生そのものを変えてしまうほどの歌を 自らの命をけずるように伝えようとする尾崎さんは、
僕に表現するということの本当の意味を教えてくれました。
何かを恐れ、前へ進めない時、僕の背中を押して 大丈夫、大丈夫といって笑いかけてくれました。
人が本当に評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうなと言ってましたね。
尾崎さんのことを、誰が何と言おうと、僕が知っている尾崎さんは、
もうこれからは誰からも傷つけられることなく僕の魂の中で生きていくのです。
尾崎さんは人一倍さびしがり屋だったから、これからはみんなの、
一人一人の胸の中で静かにゆっくりと休むことでしょう。
尾崎伝説は、はじまったばかりなのです。
最後の最後まで言えなかった言葉を贈ります。
尾崎さん、ゆっくり休んでください・・・・。
1992・4・30 吉岡秀隆
吉岡さんは途切れがちな、か細い声で、
まるで目の前に尾崎がいるかのように語りかけたそうです。つぶやくように・・・。
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